文頭の「なので」がイヤ

 数年前、職場で文頭の「なので」を連発する人がいて、それから気になりだした。この人は特に、人に何かを説明する時に文頭の「なので」を連発していた。文頭の「なので」はどうも便利らしく、あっという間に職場の他の人たちに伝染し、みんな「なので」「なので」のオンパレードとなり、それが気になる私は(一人で)ちょっといらいらしていた。
 「おかしな日本語」を語る場面ではたまに指摘されるけれど、文頭の「なので」は「〜でよろしかったでしょうか」などに比べて、違和感を持つ人は少ないらしく、あまり取り上げられることもない。その証拠に、今ではNHKのアナウンサーまでが普通に使っている。さすがにニュースの文面では言わないが、コメントやレポート、そして天気予報ではよく使われている。
 言葉は生き物なので変わって当然だと私は思っているし、「正しい日本語」にこだわりがあるわけじゃない。自分が正しい日本語使ってるとも思わないし。それに私は「〜でよろしかったでしょうか」なんかは、あんまり気にならないほうなのだ。婉曲に言いたいんだから別にいいじゃん、と思う。英語でだって、うっじゅー、くっじゅー、まいとびー、って言ってるし、柔らかくしたい時に過去形を使うのは、きっと人の感覚として自然なのだ。
 なんで文頭の「なので」だけが特にイラッとするのか考えてみると、たぶん、これが使われるのはほぼすべて、ちょっと堅い場面においてだからなのだ。本当にインフォーマルな、友達同士の雑談なんかにはほぼ使われない。上記の職場の人みたいに、「何かを説明する場面」がほとんど。だったら、ちゃんとした言葉使えよ、と思ってしまう。文頭の「なので」は安易なのだ。ライトな言葉なので、ちょっと気取った気持ちも感じられる。この「気取った」感が実は一番イヤな理由で、ちょっと堅い場面で気取りたい、という衒いが感じられるからなのだけど、そう思うのは私だけだろうか。
 文頭の「なので」の特徴は、(安易ゆえ)伝染力が強いことで、同じ場にいる人にあっという間にうつってしまう。今気になるのはvideonews.comで神保・宮台ペアが使いまくっていることで、どっちがどっちにうつしたのかはわからない。もともとどっちも使っていたのかもしれないし。宮台はいいけど、神保さんには使ってほしくないなあ、と見るたびにいつも思ってる。
 このごろは文頭で「ですので」と言っている人を見ると、それだけで「おっ」と好感を持ってしまうようになった。それだけで賢そうに見えるのである。

義捐金や支援の不公平

 阪神淡路大震災のあと、大阪府在住の知り合いが、義捐金か何かで20万だか30万だか貰ったと聞いた。何でそんなに?というと、家が「半壊」の認定をうけているからだという。どこが半壊?という感じだったけれど、被害が大きく被災者も多い兵庫県と違って大阪府は基準が多少緩いのでは、という話だった。第一、賃貸だから住人にはあまり関係のないことの気がするし。その時は震災からずいぶん経っていて、そのお金はもう何次目かの配分だったそうで、その人が合計いくら貰ったのかはわからない。兵庫県に比べたら大阪は被災者の数が少なく、それでも「大阪分」としてまわってくるお金があるらしく、そういうことが起こるみたいだった。大阪にも大きな被害をうけた人はたくさんいるけれど、その人の場合ははっきりいって、そうではなかった。
 もうしばらく後、ある場所でバイトをしていた時、同じ職場の人が(こちらも大阪在住だったと思う)市営住宅だか府営だか公団だったか忘れたが、タダで住んでいるのだという。なぜかというと、母親が震災の被害者ということでタダで借りているが、母親は自分の家に住んでいる(ええっ?)ので、代わりにその人が住んでいるのだと、しれっと言うのだった。詳しいことは聞いていないが、上の話を知っていたので、まあありそうな話だなと思った。
 本当に困っている人にお金はまわっているのか。今も義捐金の配分方法について被災者からクレームが相次いでいるそうだが、さもありなん。

石井紘基

 石井紘基原発利権も追求しようとしていた、というのを聞いたので、youtubeで「『日本病』の正体 石井紘基の見た風景」というドキュメンタリーを見てみた。
 1965年から6年近くソ連に留学していた石井は、帰国後友人に「ソ連は早晩崩壊する。もう崩壊している」「ソ連という超大国が、日本の社会とよく似ている。これは何とかしなければ」と語っていたという。国民には大切な情報を流さず、一部の政治家と官僚が経済を操る社会。ソ連崩壊の予言は20年後に実現した。
 殺される半年前に友人に宛てた手紙にはこうあったという。「所詮、身を挺して闘わなければ努まらないのが歴史的仕事ということでしょうから覚悟はしていますが、それにしても、こんな国のために身を挺する必要なんてあるのかな、との自問葛藤も無きにしも有らずです」
 崩壊するのか、このままのらりくらり行くのか。今まで危ない時にはのらりくらり助かってきた運のいい国だ。案外また朝鮮戦争でも再開して高度成長とか…。長い目で見たら、穏便に「うまく」崩壊するのが一番いいのかもしれない。
 このドキュメンタリーはフジテレビ制作。もともとドキュメンタリーの制作に携わっていた是枝裕和氏が言っていたと思うのだが、実は現場ではフジはすごくリベラルなのだとか。逆に一般にリベラルとされているような放送局の方が、すごくやりにくいのだそうだ。それ聞いて「夜中の誰も見てないような時間帯のドキュメンタリーなんて、どうでもよくて野放しなんじゃないの?」と私は思ったけれど。そういえば、videonewsで神保さんが「朝日(新聞?)って、ものすごく人間関係ドロドロしてるんだって、朝日の人みんな言うね」って笑っていたな。

シンプソンズ、原発設定だった。

 昔録画したビデオテープを整理していたら、十数年前(たぶん)の「シンプソンズ」が出てきた。久しぶりに見て思い出したんだけど、主人公ホーマーは原発勤務だったのよね。ええかげんな勤務態度で、仕事場で防護服着たままドーナツ食ったりしてる。それでその原発の経営者が悪役キャラで。釣りに行ったら三つ目の魚が釣れたりする。家族揃っての食前の祈りで、普通なら「神に感謝します」と言うところを「原子力に感謝します。他の国と違ってまだ1度も事故を起こしていないことに」と言って妻に「あなたいいこと言うわね」と言われたりしてる。
 日本の原発事故以降、ドイツやスイスでは「シンプソンズ」の原発エピソードの放送を自粛したとか。意味がわからん。今こそ放送したほうがいいのに。
 ところで、三つ目の魚はしゃれにならない話で、私の直接の知り合いは、昔、若狭の原発の近くで釣りをしていて、背骨がいびつに曲がった魚を釣ってぞっとしたと言っていた。
 これは小出さんが言っていたのだけど、英語では「核」と「原子力」の区別はなく、日本語では「核」と言うとイメージが悪いので都合よく「原子力」と言い換えている。そのくせ他国のnuclear developmentは「核開発」。自国のは「原子力開発」。
 atomic energyという言葉もあるけれど、原発は普通、nuclear power plantと言うよね。ホーマーの食前の祈りでもnuclear powerって言ってたよ。

久世光彦とサヨク

 昔使っていたMDを整理していたら、「ラジオ深夜便」から録音した朗読が出てきた。久世光彦の「マイ・ラスト・ソング」。久世光彦は好きな人が多いようだけど、私は感傷的すぎてあまり好みじゃない。朗読を聞いていたら、「カチューシャ」にまつわる話として、学生時代に演劇をやっていた話が出てきた。すぐものごとを女という比喩で語ろうとするのもあんまり好みじゃないところなんだけど(ここではチェーホフを「いい女」に例えてる。「すぐに別れなければいけない女だからこそ燃え上がる」とか。げろげろ)、それはいいとして、中にこんな話が出てきた。
≪誰もが多かれ少なかれ左翼的な心情を持っていたあの頃には、それがいずれ崩れ去っていく予感に包まれた感傷みたいなものがあった。私達の仲間に限らず、あの頃、昭和20年代から30年代の中頃にかけて学生だった連中はみんなそうだった。それは、私が五木寛之の「青春の門」や柴田翔の「されどわれらが日々」を読んで今でも胸が痛くなる、あの感傷だ。例えば、これらの小説のBGMに、私はどうしてもある歌声を聞いてしまう。≫
 そのBGMが「カチューシャ」というわけだけど、なんかよく似た話を最近聞いたなあ、と思った。
 この間、平井玄さんがお話をするイベントに行ったのだ。平井さんは高校全共闘の世代で、坂本龍一と同じ高校で運動をしていたとのこと。この方が、最近「マイ・バック・ページ」という川本三郎原作の映画を見に行ったが、見ていてとても胸が痛かった、とおっっしゃっていたのだ。映画館には自分と同じくらいの年代の女性で泣いている人がいたのだが、その気持ちはとてもよくわかった、のだそうだ。
 全共闘の夢破れ去った話だろうから、こちらの方がより、感傷より痛みのほうが勝るのかもしれないが、日本のサヨクの(男の)姿は連綿と似通っているのかもしれない。ロマンチスト、感傷、カッコつけ、BGMがついたり、音楽とからめたがるのも同じ。ロシア民謡ボブ・ディランじゃえらい違いだけど。いや、あんまり変わらないのかな?
 ところで、映画「マイ・バック・ページ」では、川本三郎役は妻夫木聡だそうで、え〜〜〜〜。川本三郎って村上春樹とソックリだと思うんだけど。そういや村上春樹も連綿サヨクの男の姿に連なる。げろげろなところも...。
 wikipedia久世光彦の項を見ていて、晩年に「センセイの鞄」の演出をしていたのを知った。文系インテリ老人男性に夢を与えたおとぎ話のこの小説、好きだったのかなあ。センセイに自分を重ね合わせたりしたのかなあ...。

「外泊」見ました。

 韓国のドキュメンタリー映画「外泊」を見た。大型スーパーでレジ打ちの仕事をしている主婦たちが、非正規雇用の打ち止めに怒り、大勢でストライキする話。「外泊」とは仕事場のスーパーを占拠して泊まり込むことから。
 どうしても、日本と比較しながら見てしまうんよねえ。見てる間ずうっと、こりゃ日本ではあり得へんな〜、日本だったらこの人たちに誰も同情せんやろなあ、そもそもここまで闘争に参加する人間が集まるわけないよなあ、とか、ついそういうことばっかり考えてしまう。映画の中では「闘争」なんかには縁のない主婦たちが行動してるってことがポイントなんですが、韓国ってそもそも、デモとかハンストとか、普通にしょっちゅうやってるもん。駅前なんかでテント張って何らかを訴えてハンストしてる姿とか、旅行してるだけで見る。たまたまソウルに行った時に出くわしたデモについていったこともあるよ。この人らどこに行くんやろー思って。そういえば韓国では売春婦がデモしてたこともあるよね。日本では、先日、原発反対のデモが盛り上がったようですが、まあ、パレードと混同があるよね。サウンドデモにしても。それが悪いとは思いませんが、まあ、個人的には何となく違和感はあるかな。別にいいとは思うんですが。デモが盛り上がるのはいいことだし。
 日本で活動家というと、60年安保世代、団塊とそのもうちょっとあとくらいまでかたまりがあって、そのあとずーっと断絶があって、雨宮処凛以降の「サブカルメンヘルサヨク」ともいえるかたまりに至る、というイメージがあります(もちろん個別にはずっと活動してた方はおられたでしょうが)。どうもその、サブカルサヨクの人たちの話を聞くのがしんどい。全員がそうではないとはじゅうじゅう思うのですが、どうにもこうにも「自分探し」を感じるのよ。活動といいながら、自分語りが多いような。何かを社会に訴えるというなら、何らかの要求を大きなもの(企業や政治)に対して突きつけるというなら、それはとても公共的な営みであるはずなのだけど、それとは対極にあるような閉じた営みをしている、ような。
 てなことを上のほうの世代の方に言ったところ、「団塊だって自分探しだった」と言われた。うーん、確かに。だからダメだったんじゃん!
 チェルノブイリのあと、反原発の機運は世界的に高まり、日本では広瀬隆の本がたくさん読まれたし、忌野清志郎の反原発の歌もたくさんの人が聞いた(実は私はどちらも見たこと聞いたことがないんですが…話に聞くだけで)。あの頃、活動家の間だけでなく、本当に一般にもひろく反原発の意識は浸透したはずだ。なのに、その後の日本の原発政策には何ら影響を及ぼすことなく、戦前の日本よろしく原発大国の道へと突き進んだ。その内、広瀬隆はトンデモ扱いされるようになり、原発反対の意見を持つ人は「イタい人」「頭のよくない人」のような扱いをうけるようになった。正直、私は日本人を信用することができない。この、ムードに弱く、同調圧力に弱く、世論誘導に弱く自分の考えをしっかり持てない人たちを。あれだけの事故があったのだから変わるに決まってる? そうかなあ…。韓国人なら今頃、ものすごい怒りでどんなデモが起こっているやら…。「日本人の忍耐強さと非常時にも暴動など起こらない礼儀正しさは素晴らしい」なんて外国の新聞に書かれて喜んでいるなんて、どうかしてると思うけど。

「善徳女王」ムンノはウテやったんか

 サンテレビ放映中の「善徳女王」が面白いので、吹き替えには不満だけど時々見てる。お気に入りは、ムンノというシブくてかっこいいオッサン(ドラマの最初では若かったのかもしれないが、私は途中から見たので)。弟子のピダムとペアで、超お気に入り師弟だった。過去形なのは、ムンノ退場しちゃったから…。ピダムの腕の中で息絶えるシーンは、ほとんどBL。韓国では男同士の友情のシーンが熱すぎるのよねえ。ピダムはこの先悪役側になっちゃうみたいだし、ドラマ見るモチは下がりぎみ。
 この素敵なおじさまは誰?と思って調べてみると、「朱蒙」でウテ役をしていたチョン・ホビンという俳優だった。え〜、ウソ〜、別人! ウテは地味で辛気臭い役でぜんぜん好きじゃなかった。だんぜんムンノのほうがハマリ役っすよ。ていうか老け役が似合うのか?
 ピダムのほうは、キム・ナムギルという俳優さんで「善徳女王」で大ブレイクしたらしい。そりゃそうだ。ロングヘアーがお似合いで素敵だもん。憎い奴をギローと睨む時の目がいいんよね〜。
 このドラマの欠点は、主人公と悪役の顔が似てること。時々一瞬どっちかわからなくなる。どっちも美人だけど、どっちもぽってり丸顔系。この顔、配役の責任者の好みだったんじゃないの? シャープ顔の好きな私は(ピダムはシャープ顔)この2人の顔はあんまり好きじゃない。主人公には双子の姉がいるという設定なんだけど、この姉が双子というのに全く似ていないシャープ顔。なのに何の血縁もない悪役とはそっくり。そしてこの丸顔の悪役とシャープ顔のピダムが親子だという、無茶苦茶な顔設定。せめて双子くらい、少しは顔を揃えてくれよ。
 でも、ピダム、三善英史に似てるんだよね…。