「外泊」見ました。

 韓国のドキュメンタリー映画「外泊」を見た。大型スーパーでレジ打ちの仕事をしている主婦たちが、非正規雇用の打ち止めに怒り、大勢でストライキする話。「外泊」とは仕事場のスーパーを占拠して泊まり込むことから。
 どうしても、日本と比較しながら見てしまうんよねえ。見てる間ずうっと、こりゃ日本ではあり得へんな〜、日本だったらこの人たちに誰も同情せんやろなあ、そもそもここまで闘争に参加する人間が集まるわけないよなあ、とか、ついそういうことばっかり考えてしまう。映画の中では「闘争」なんかには縁のない主婦たちが行動してるってことがポイントなんですが、韓国ってそもそも、デモとかハンストとか、普通にしょっちゅうやってるもん。駅前なんかでテント張って何らかを訴えてハンストしてる姿とか、旅行してるだけで見る。たまたまソウルに行った時に出くわしたデモについていったこともあるよ。この人らどこに行くんやろー思って。そういえば韓国では売春婦がデモしてたこともあるよね。日本では、先日、原発反対のデモが盛り上がったようですが、まあ、パレードと混同があるよね。サウンドデモにしても。それが悪いとは思いませんが、まあ、個人的には何となく違和感はあるかな。別にいいとは思うんですが。デモが盛り上がるのはいいことだし。
 日本で活動家というと、60年安保世代、団塊とそのもうちょっとあとくらいまでかたまりがあって、そのあとずーっと断絶があって、雨宮処凛以降の「サブカルメンヘルサヨク」ともいえるかたまりに至る、というイメージがあります(もちろん個別にはずっと活動してた方はおられたでしょうが)。どうもその、サブカルサヨクの人たちの話を聞くのがしんどい。全員がそうではないとはじゅうじゅう思うのですが、どうにもこうにも「自分探し」を感じるのよ。活動といいながら、自分語りが多いような。何かを社会に訴えるというなら、何らかの要求を大きなもの(企業や政治)に対して突きつけるというなら、それはとても公共的な営みであるはずなのだけど、それとは対極にあるような閉じた営みをしている、ような。
 てなことを上のほうの世代の方に言ったところ、「団塊だって自分探しだった」と言われた。うーん、確かに。だからダメだったんじゃん!
 チェルノブイリのあと、反原発の機運は世界的に高まり、日本では広瀬隆の本がたくさん読まれたし、忌野清志郎の反原発の歌もたくさんの人が聞いた(実は私はどちらも見たこと聞いたことがないんですが…話に聞くだけで)。あの頃、活動家の間だけでなく、本当に一般にもひろく反原発の意識は浸透したはずだ。なのに、その後の日本の原発政策には何ら影響を及ぼすことなく、戦前の日本よろしく原発大国の道へと突き進んだ。その内、広瀬隆はトンデモ扱いされるようになり、原発反対の意見を持つ人は「イタい人」「頭のよくない人」のような扱いをうけるようになった。正直、私は日本人を信用することができない。この、ムードに弱く、同調圧力に弱く、世論誘導に弱く自分の考えをしっかり持てない人たちを。あれだけの事故があったのだから変わるに決まってる? そうかなあ…。韓国人なら今頃、ものすごい怒りでどんなデモが起こっているやら…。「日本人の忍耐強さと非常時にも暴動など起こらない礼儀正しさは素晴らしい」なんて外国の新聞に書かれて喜んでいるなんて、どうかしてると思うけど。