しもじもの思い

 この間読んだ『少子社会日本』で、山田昌弘は、厚生省の審議会などに招かれて何度も自説を披露したが、自分の主張は「研究者、官僚、マスメディアの人たち」にはなかなかわかってもらえなかったと(最初は隠蔽された、というようなことも)書いている。
「だから、『平成一〇年版厚生白書』は、極めて奇妙なものになっている。その中で、小倉千加子氏の調査によって「新専業主婦志向」が広まっていることがきちんと書かれているのにもかかわらず、「仕事も子どもも持ちたいと思っている女性の願いを叶える」ために女性の両立条件を整えることが必要だと結論づけている」
「多分、少子化問題を研究し、議論し、報道し、対策を立てる人の大多数は、大学教授にしろ、官僚にしろ、記者にしろ、「続けたい仕事」をもっている人なのだろう。だから、地方の組み立て工場で毎日同じ作業をする女性、ファストフード店で働くフリーター女性、毎日データの打ち込みばかりの派遣社員女性、そして、昇進のない一般職女性が「仕事を続けたいから結婚しない」などとは絶対考えるはずはないということに思い至らないのであろう」
 私がNHKワーキングプア特集や自殺特集、政府のピントのずれた政策なんかを見て違和感を感じるのも、結局のところこれだと思う。大手メディアの人や官僚や政治家や研究者の多くは、本当はしもじもの人のことなど、これっぽっちも理解しようという気はないのだ。ただ自身の「意味のある、やりがいのある仕事」のために、そのために都合のいい話をとってつけてるだけなのだ。だから「上から目線」から逃れられない(逃れようという気も実はない)。悪気はないだろうが実際的に考えられないということはやっぱり頭が悪いのだろう。
 『論争 格差社会』という新書で斎藤環は(この本の中で読む価値があるのはこの斎藤環の文章くらいなのだけど)、ホリエモンに関して、それみたことか、やはり額に汗して働くことが貴いのだなどと言えることが、「勝ち組」の見分け方なのだと書いている。
「私の考えによれば、いまやためらいなくこうした倫理観や価値判断を口にすることができる感性こそが「勝ち組」的なのである。なんと彼らは驚くべきことに、他人に対して適切な意見を述べたり、説教したりしようとするのだ。そうした言動の基本にあるのは、自身の生き方や、価値観に対する揺るぎない自信である。いったいどのような修行をすれば、そのような境地に至りうるのだろうか」
「ひきこもりやニートのことを言っているなら、彼らは何も待ってはいない。ただ「終わった」という漠然とした確信があるばかりだ。(略)彼らはなぜか、社会の現状が思わしくないから参加できるタイミングを先送りして待ち続けているかのように誤解されているが、これでは彼らが「確信犯的フリーライダー」(つまり「甘ったれの怠け者」)だと言っているようなものだ。しかし繰り返すが、彼らは何も待ってはいないし、この先社会がマシな場所になるとも思っていない」
 10月の朝まで生テレビ東浩紀雨宮処凛にまじって赤木智弘氏が出演していて、タワラに「言いたいことは」と聞かれて「努力しろと言わないでほしい」と言っていた。努力という言葉は、成功した人が結果として「努力した」とはじめて言える言葉なのであって、そうでない場合に努力という言葉には意味がない、みたいな説明で、その時は「うわーこれはおじさん達には伝わりにくいわ」と思い、実際、他のパネラーのおじさん達はポカーンとしてしまい、「でもやっぱり、努力は必要だと思うよ…」などと案の定返されてしまっていた。