『生きづらい〈私〉たち』香山リカ

 読んでたらいいことも言ってるのに、読み終わったらなんも残らん。この人の本はいつもそうな気がする。悪い人ではなさそうだけど、本質的に軽いのかな。そして本質的に楽天的なのか。やっぱり80年代文化人なんだなーと思う。本の前半は面白いけど、後半はあれれ?というふうになっていく感じ。現在の、雑誌の代わりに新書、1ネタ1新書という出版事情の世界では、新書というのは長すぎるのかもしれない、と他の新書を読んでてもよく思う。半分の厚さでいいんじゃないかな。
 「こんなにつらいのは自分だけ」という考えが決めつけだ、という例としてダイアナ妃をあげてるのが特にあれれ?だったな。
 〈客観的に考えてみると、彼女はそれほど“不幸”だったとはとても思えません。ふたりの王子の母となり、日本の皇室とは違ってファッションや友だちづき合いも比較的自由なイギリスの王室で、ダイアナはそれなりにロイヤルな生活をエンジョイしていたように思えました。(略)王室にいながら、あるいはそこを出ても、特権的な立場や美貌、財力を生かして人生の建て直しをするチャンスは若い彼女にはいくらでもあったと思われます。ところが結婚生活の後半、写真に写るダイアナは「私は世界一、不幸な女」といった表情をしていました。おそらく、自分でも本当にそう思っていたのでしょう。自分を見て状況をとらえる“心の目”がすっかりゆがんでいたのです。〉
 とのことだけど、いやーバブル的感性だなあと思った。「私ならエンジョイできる」という確信があるのか、それとも、自身がそうではなくても、そういう常識が心の中にあるのか。華々しく結婚したはいいが、夫は結婚前から年上の愛人がいて、結婚後もずっとその関係を続けていると知ったら、そりゃ不幸でしょうよ。しかも自分が死んだあとその相手と再婚したんだから、それを見なくて済んで幸せだったのかどうか…。「ロイヤルな生活だから」というだけで幸せだと思えるなんてすごい。人の幸せは物質的豊かさで決まると言ってるようなもんだ。
 とはいえ、精神医学界の病名の線引きが不毛だというのは本当にその通りだと思う。病名をつぎつぎにでっち上げていくのが精神科医の飯の種だとさえ思う。病名がころころ変わるのも(分裂病統合失調症とか)どうかと思うし。そういえば昔は自律神経失調症とかよく言ったけれど、今は言わないな。パニック障害に変わったのかな。
 この本で一番印象に残ったのは最後のほうのこの部分。
〈エッセイ中心のホームページを作っていたある女性が、二〇〇三年、自殺により命を失いました。彼女もまた「生きづらさ」を抱え、哲学や文学を学びながらなんとか問題を解決しようともがき続けていたのですが、ついにあるとき「命を絶つしかない」という結論に至ります。そして書かれた長い「お別れ」の一節に、こんな文章がありました。
「最後の魔法のおかげで世界はとても綺麗です。/私は生きている間、時々、一瞬だけとおくをかいま見ることができました。/結局そこに行くことはできませんでしたが、でも、ここもとても綺麗です。
明日がこないからです。/これが最後の夜だからです。」
 彼女がなぜ死を決意したのかを安易に語ることはできませんが、「一瞬だけかいま見たとおく」というのは、もしかすると日常を超越した恐ろしくも美しい彼岸の世界のことなのかもしれません。〉
 香山リカはこれをフロイトの死の欲望とラカン現実界と関連づけて語っているけど、その辺はどうかよくわからない。フロイトラカンもどうかと思うし。でもこれを見るとちょっとだけ、オトメチックなゴスロリ的感性の人やリストカット的感性の人がなぜ死に惹かれるのかがわからないでもない気もした。
香山リカ・正本ノンのおしゃべりな放課後―いい子でなくてもダイジョーブ! (自分探しの旅シリーズ)
 関係ないけど、この表紙の写真がすごい。30代半ばでこの女子高生風コスプレで鑑賞に堪えるというのが…。美人なんだね。対談相手の人は撮影用のコスプレを拒否したのか、卒業写真の休んだ人みたいになってる。香山リカは「あ、いいですよ」と何でも軽く引き受けそうだもんね。