自己責任

 テレビで評論家が茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩を紹介しつつ、「これが本当じゃないのかあ。あんたこれをどう思うのかあ」とゲストの湯浅誠に詰め寄っていた。自分の感受性くらい自分で守れ、人のせいにするな、暮らしのせいにするな、時代のせいにするな、ばかものよ、みたいな詩で、評論家は生活保護に頼る貧乏人を非難する意図でこの詩を朗読してたようだった。

 詩に興味がないので(だって詩人で好きな人って全然いない。谷川S太郎も伊藤H美もねじめS一も、正直、キライ)茨木のり子は名前しか知らず、なんちゅう上から目線の詩だろうと思って、でも詩の全文を見てみたら、これは人を責めてるのではなく自分を責めてる詩なんだとわかった。しかもこれは反語的なのであって、人のせいや暮らしのせいや時代のせいにしてしまう自分があるからこそこんな詩ができるのだから、そう思って見ると感動的な詩ではある。

 しかし世の中にはこの詩に衝撃を受けたとか、自分はなんてだめなんだろうと思い知らされたとか、座右の銘にしているとかいった人がいっぱいいるらしく、そうしてみると、評論家の意図と同じように捉えられるのは一般的なのだろう。この詩がずいぶん前のものであることを考えると、日本人というのは昔から自己責任論が好きで、自己責任なんて言葉が取り沙汰されてきたのはここ10年ほどなのだけど(だいたい「自己」責任という日本語の意味がわからない。責任は普通、自己のものだろうに…)もともとそういう感覚は強かったのだろう。日本人の特徴が「甘え」だと長らく言われてきたけれど、甘えと背中合わせで自己責任はいつもあったんだろうなあ。そういや「甘えるな」って居丈高に人に言うのが大好きな人、多いもんなあ…。私、「甘えるな」って言葉を言える人間って、大嫌いなのよね。「私の嫌いな十の言葉」に入るね。

 たいていの人は、生きていくために自分の感受性を会社とか他人とかに売って生きている。それをしなくていい人は、とても強い人間だったり、変わり者だったり、単に幸運な人間だったりするだけでしょう。