「身分が違う」

 この言い方はいまこそ復活してもいいんじゃないだろうか。こんだけ格差社会だの階層が固定化してるだの言ってるわけだから、こういう言い方をわざわざしないのは偽善だとさえ思える。例えば私のような、親は小学校しか出ていない在日労働者階級だったような人間が(まあ私はかなり特例的に低い「身分」ではあるかもしれないが)、例えば京大や東大の人相手に話す時に感じるのはまさに「身分が違う」という言葉がぴったりの感覚なのだから、もし使えたら便利だと思う。「あーあの人とは身分が違うからねー」って簡単に使えそうだ。別にいい家のお嬢さんでもその他えらい人でも何でもいいんだけどさ。とにかく経済的・文化的な豊かさに圧倒的な差を感じる場合なんかにですよ。
 日本には身分制度はないので難しいのかな?と思ったけど、身分証明書という言葉はあるわけだし、国語辞典によると一番上にくるのは「ある集団・組織における、その人の地位・資格(yahoo!辞書大辞泉)」というわけだから、いけそうだ。「妻という身分」みたいな言い方もするし。それともイギリスみたいに「階層」と言うか? 日本人の好きな英語で「クラース」とかさ。クラースが違うの、みたいな。
 しかし現代の身分はなかなかシビアですよ。タテマエ上は身分はないことになっているから、高いとこにいる人は下に落ちないように必死だし、低いとこの人はとにかく何かとっかかりをひっつかんで上の方に入り込もうとがつがつしてるから(それも必死になれるだけの希望と余裕を持てる「身分」の人に限られるけどさ)どっちも大変。下のほうはいつの時代でもハングリーなものかもしれんが、上のほうは、本来はもっと慈悲や余裕や品みたいなもんがあるべきなんだけど、そんなもんないない。しかも自分が「上」にいるのはたまたま境遇がよかっただけだということは認めたくないから、それは自分が努力したからだと思ってたりしてさ。まあ上のほうも必死なわけですよ。
 しかし「勝ち」だの「負け」だのと世間ではいってるが、本当に競争が嫌いな人も世の中にはいるわけですよ。しょうむない話、私なんてまあ貧乏だからヤフオクしますけど、あの終了時間前って本当に嫌な時間だ。他の人と戦ってるという状況がたまらなくイヤ。しかし負けず嫌いの友達なんかは、あの時間は闘争心を煽られる刺激的な時間らしい。競争には向き不向きがあるわけだ。
 まあ実際は「身分が違う」者の間じゃなくて、ビンボー人同士で足を引っ張り合ってる場合が多いんだろうけどね。